米沢嘉博「戦後エロマンガ史」から pt5

劇画家としての凡天太郎は1969年頃から、怪奇や時代劇に加え任侠モノ・鉄火女モノを書くようになり、執筆量は倍増します。これら各作品の紹介はエントリーの趣旨から外れるので、追々このブログで紹介していくとして、話を米沢嘉博「戦後エロマンガ史」に戻しましょう。

p98「十一 七〇年という時代を前に」では、70年安保を翌年に控えた69年を、青年劇画が先鋭的になった年と位置づけ、
<『COM』から宮谷一彦、真崎・守、青柳裕介、長谷川法世が、『ガロ』からは林静一、佐々木マキなどが、青年マンガ誌に舞台を移し、貸本漫画家が雑誌への移行を終え、戦中世代、戦後世代の作家たちが、時代の空気を読み取った作品を次々と発表し始めていた。
『漫画アクション』『漫画ゴラク』『ヤングコミック』『ビッグコミック』『プレイコミック』『コミックVAN』といった先行誌が、中心となっていき、これらは団塊の世代の読者に支持されて好調に部数を伸ばしていった。>とあります。


こんな時代背景の中で、1969年8月に凡天太郎は週刊連載と読切月3本ほどのペースを維持しながら雑誌を創刊させました。
それが『ブラックAce』です。
ba01ba02ba03ba04ba05ba06ba07ba08ba09ba10(表紙 10号のみ前田寿安、それ以外すべて凡天太郎)


<『ブラックAce』は「怪奇専門誌」と銘打ち“豪華執筆陣による怪奇コミック大特集”と創刊号は謳っていた。編集を凡天太郎が行っており、彼の人脈で集めたのは水木しげる、いばら美喜、木村仁、五代譲二、浜慎二、前田寿安、前田海、橋本将次、高信太郎、名保木勝。確かに豪華メンバーである。しかもこの雑誌は「劇画・マンガ新人賞」を行っており、選考委員には前述の執筆者のほか、楳図かずお、白土三平、棚下照生などが並んでいたのだ。巻頭言は加太こうじ。ちょうど青年誌で怪奇マンガが人気を得ていた時期だった。エロとグロを合わせたコンセプトは誌面ではうまく生きていた。
(中略)
時代の中で、新たな方向性を示しうるグレードを持ち、エロやホラーの本質とも渡りあえる可能性を見せていた。残念だったのは、ホラーそのものの時代の振幅の中での衰退、出版社の力のなさ、さらには製作原価がかかりすぎたことなどもあって、一年足らずで力つきたことだった。ジャンルマンガ誌としても、かなり早いものだったと言えるだろう>


エロ・グロ・ナンセンスに対して深い造詣を持つ米沢氏を唸らせる『ブラックAce』。
当会の刊行物「梵天、かく語りき」で、凡天自身が販売を請け負ったのは芸文社と語っていますが、実際は淡路書房。取次との取引口座が作れなかったから、友人である淡路書房の社長に出させてもらったとのこと。
そして「~語りき。」で「刺青の雑誌」を出したかったと語っているとおり、グラビアは「おんなと刺青」(7号より「刺青と女」に改題)というコンセプトで凡天自身がカメラマンを務めるほどの熱の入れようです。怪奇雑誌を出すと淡路書房に話をつけた上で、「刺青」に関する内容を本誌に散りばめたのではないかと考えられます。


この『ブラックAce』のように漫画家が雑誌を創刊し編集人として名前を出している代表的なケースは、1967年に山川惣治が絵物語の復権を目指して出版したタイガー書店『ワイルド』、1972年に創刊した赤塚不二夫『まんがNo.1』があり、いずれも大損害を出しました。凡天太郎も『ブラックAce』休刊の理由を資金不足でやめたと語っています。(※虫プロ『COM』とリイド社から刊行された『リイドコミック』は編集に本人が携わっていなかったので外しました。)


この『ブラックAce』に関する記述は、飯島市朗「ゴリラとの結婚」が掲載された事で知られる雑誌『ブラックパンチ』と共に、同時期に刊行された怪奇嗜好の雑誌として2回に跨がって行われました。
p105「十二 七〇年性の革命と闘争」の「承前 一九六九」では『ブラックAce』10号(休刊号)が取り上げられ、
<絵師の流れにあるデッサン力のある作家たちが、乾いたタッチで展開する怪奇世界は、ゴシックホラーと貸本劇画のラフさが一つとなって独自の世界を作りあげていた。>
という賛辞が送られています。「戦後エロマンガ史」での凡天太郎に関する記述はこれが最後です。


集英社『週刊明星』というメジャー誌で連載を続けながら、エロ実話誌と青年マンガ誌の境界線に居続けた凡天太郎を考える時に、エロ劇画というジャンルが成立する前の未分化なマンガ雑誌に関する記述に全体の半分以上のボリュームを割いている「戦後エロマンガ史」は非常に有効ですが、膨大な仕事量を整理して全貌を見渡すだけでは、非常に捉えにくい作家です。
紙芝居の生き残りを束ねてプロダクションを立ち上げ混迷の時代をサバイバルし、1973年というエロ劇画成立前夜に筆を折っている事は、時代性を捉える事に長けた凡天太郎ならではの嗅覚によるものであったと思えてなりません。
2013年の凡天劇画会はここをスタート地点として、凡天太郎の劇画とその時代の研究を続けていく所存です。

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