新発見と、今後の活動予定。

凡天太郎は、昭和48(1973)年11月『混血児リカ』終了と同時に劇画家としての活動を終了しています。

芸文社「コミックVAN」昭和49(1974)年7月22日増刊号「任侠男の美と世界」に、凡天太郎名義の作品が掲載されていますが、絵柄から考えても凡天プロのさくらいやすおを主筆とした凡天太郎プロダクション作品と断言していいでしょう。

しかし、80年代に凡天太郎が劇画家に復帰していることが判明しました。
それがこちら!

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凡天太郎対談 ゲスト西崎義展(『マスコミ評論』1980年4月号、5月号)

マスコミ評論社が発行していた『マスコミ評論』という雑誌の、
1980年2月号から7月号にかけて「凡天太郎対談」という連載がありました。
そこに、評伝『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男』が発売され話題となっている
西崎義展氏がゲストで登場しています。
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Jコミで印刷できるってよ 「混血児リカ」届きました

では、早速β版との比較。

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表紙のデザインはJコミで公開されているものがベースになっています。正式版の右上にレーベルロゴが追加されました。アルファベット小文字を効果的に挿入してJ-COMIcSと表記。J-COMIの文字が際立つようにデザインされています。

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米沢嘉博「戦後エロマンガ史」から pt5

劇画家としての凡天太郎は1969年頃から、怪奇や時代劇に加え任侠モノ・鉄火女モノを書くようになり、執筆量は倍増します。これら各作品の紹介はエントリーの趣旨から外れるので、追々このブログで紹介していくとして、話を米沢嘉博「戦後エロマンガ史」に戻しましょう。
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米沢嘉博「戦後エロマンガ史」から pt4

「七 エロ雑誌と青年誌の間」のp79「大出版社の参入開始!!」の冒頭、
1968年には小学館「ビッグコミック」・秋田書店「プレイコミック」など
大手出版社が劇画誌を出版するようになるという記述の中に、
相互日本文芸社「漫画ゴラク」も取り上げられ、創刊号の執筆陣として凡天太郎の名が挙がります。「漫画ゴラク」の創刊時期は「漫画ゴラクdokuhon」が正式な誌名です。これは前身の大人漫画雑誌「漫画娯楽読本」を継承した名称です。 続きを読む

米沢嘉博「戦後エロマンガ史」から pt3

p68「六 青年劇画誌スタートの影で」では、「漫画パック」(1967年9月創刊)が取り上げられ、創刊号に掲載された凡天太郎『人肉面』について〈海外ホラームードを持つ力の入った作品で、スタイルもホラーイラストの影響を受けていた。凡天太郎のホラー嗜好、テクニックを確認することができる〉と書かれています。
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米沢嘉博『戦後エロマンガ史』から pt.2

 戦後エロマンガ史の中で、凡天太郎の名前が初めて登場するのは59P 四「青年マンガ事始め一九六六」の章の中の『漫画OK』に関する項目です。1966年頃に創刊した青年向けマンガ誌は、“劇画”をどう解釈するかを確立していなかったため1966~68年の間に様々な実験が行われていったという前提のもと、例に挙げて実際の変化が記されています。
 その中の一つが1966年2月に創刊した『漫画OK』。創刊当時は表紙も含め大人漫画(いわゆるコマ漫画やナンセンス漫画)中心だった誌面が、劇画中心の内容へと変化していくという事が目次の情報を列挙する形で行われ、1968年には表紙がピンナップガール的なリアルなイラストへと変化し連載陣もすっかり劇画誌の構成になっているという説明の中に、橋本将次や笠間しろうに続き凡天太郎の『現代不良少女伝』が記されています。
(※同ページの図版、63年3月1日号の記述は66年の間違い)
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