凡天太郎という劇画家

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初代 梵天太郎(凡天太郎) 1928~2008

 凡天太郎は昭和3年に生まれ、小学4~5年頃に竹中英太郎の絵に影響を受け画家を志すが、昭和18年に予科練へ志願し、出撃の直前に終戦を迎えた。
 戦後は所謂「特攻くずれ」として酒とケンカに身をやつしたが、昭和22年ごろ、絵を諦めきれずに京都都市立絵画専門学校へ入学。近所に住む刺青師・彫金老人と出会う。弟子入りはしなかったが、刺青の魅力にとりつかれた。
 同じ頃、紙芝居を描けばお金になるという噂を聞き、友人の伝手で紙芝居界の有力者だった加太こうじ紹介してもらい、紙芝居作家としての活動をスタート。昭和23年8月には後のガロ編集長・長井勝一が青林堂の前に立ち上げた出版社である文林堂で赤本マンガも執筆している。
 少し遅れて紙芝居の世界に飛び込んできたのが水木しげる、白土三平、小島剛夕といった後に劇画会の巨匠となる作家たち。凡天が下絵を描き、そこに水木が着色をするといった事もあったとの記述も残されている。

 紙芝居が下火になると少女漫画家へと転身。
 画学校で学んだ基礎を活かした絵のクオリティと、紙芝居で学んだ読者をひきつける物語のテクニック。石井きよみのペンネームで一躍売れっ子作家となったが、不眠不休で月産200枚を仕上げる生活が10年近く続き、自分の生き方に疑問を感じはじめた凡天は、昭和36年のある日、少女漫画の仕事をすべて辞め、憧れていた刺青師になるため修行の旅に出る。
 「右手に針、左手にギター」を持ち、全国津々浦々、博徒、テキヤの間を放浪し、刺青師・流しとして生計が立てられる腕前を身につけた。

 そして昭和41年。5年間の放浪の末、凡天太郎は再び筆を握る。
 放浪の果てに抱えたドロドロした人間の闇の部分を表現したいと選んだ表現方法が「劇画」だったのである。集英社「週刊明星」では昭和43年から長期連載を開始。それと並行して劇画誌で短編を中心に発表。作風も時代劇、戦記、怪奇、三面記事、任侠、ギャグ、SFとオールジャンルをこなし、発表媒体は大人向けの劇画誌から週刊少年ジャンプと幅広い。
 昭和48年11月、『混血児リカ』の終了と共に筆を折った。 劇画家として活躍したのは僅か7年間。現在もその調査は続いているが、現在判明しているだけで作品数は150以上見つかっている。

 凡天太郎の劇画作品は現在の漫画のようなリアルな画に依存した過激さはないが、刺青修行を経てたどり着いた鬼気迫る描画は魅力的であり、差別や死があたりまえに至るところに存在するリアルな社会が描かれている点が最大の魅力だ。

 1970年代初頭、紙芝居界の首領・加太こうじをして「紙芝居出身で成功した劇画家は水木しげる、白土三平、小島剛夕、そして凡天太郎」と言わしめた人気作家の一人だったにもかかわらず、代表作『混血児リカ』も含めて単行本は1度も出ていないのだ。
 刺青師としての様々な功績に比べると、劇画家としての凡天太郎が知られていないのは、こういった所にも要因があるだろう……。

凡天太郎という劇画家」への1件のフィードバック

  1. 凡天太郎は、三島由紀夫さんと同じスポーツジムでした。
    凡天太郎が出版した『ブラックエース』を《すごく面白い、凡天さん続けて下さい。》と言われていました。
    しかし、10号で終わりました。
    非常に残念でした。
    生前、凡天太郎は、もう一度『ブラックエース』を出版したと言っていました。
    特に沖縄の妖精 “きじむなあ” を書きたいと言っていました。

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